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大田・絵堂の戦い④
美東の桜はどこも満開ですが、今日は「大田・絵堂の戦い」の
第四弾として、呑水垰の『大田絵堂戦跡記念碑』を紹介しましょう。
大田絵堂戦跡記念碑-1
「呑水垰(のみずのたお)の戦」は「大木津(おおこつ)・川上の戦」と共に
大田・絵堂の戦いにおいての激戦地です。

国道490号線を大田から萩方面に北進すると、左手に
『明治維新発祥の戦 大田・絵堂戦役 呑水垰激戦地』と記した
大きな看板がありますので、すぐ分かります。
大田絵堂戦跡記念碑-2
この題字も旧萩藩主の正三位公爵「毛利元昭」によるものだそうです。
読み難いのですが「慶應乙丑 大田絵堂戦跡記念碑」と刻まれています。

記念碑のある所には、大きな桜と戦いの説明板があります。
大田絵堂戦跡記念碑-3
ちょっと貼り付けた写真では読み難そうなので、転記します。
 呑水垰 激戦の地
  慶應元年(1865)正月14日8時頃より、萩政府軍(俗論党)の大田
  攻撃が開始された。諸隊(正義党)も奇兵隊を主軸にこれを迎え、
  正午頃より合戦となる。諸隊は、この地に地雷を埋め赤坂堤まで
  後退したが、地形不利のため政府軍優勢の中で大激戦となった。
  そのうち遊撃軍30余名が東側の小中山に登り、陣鼓・陣貝を鳴らして
  銃撃し、また、奇兵隊が大木津口より政府軍の側面を攻撃したので、
  政府軍は大いに驚き、雨で火縄銃も役に立たず赤村へ後退した。
  この戦いの後、高杉晋作、伊藤俊輔(博文)等遊撃隊の応援を受けて、
  16日赤村の敵を夜襲し、決定的な勝利をあげた。
  この戦いで、正義派が俗論党を敗り、逆転しかけた歴史の歯車を
  危機一髪で正道に戻し、統幕・維新へ発展していった。
  戦死者 諸隊:1名 萩政府軍:10名
                                美東町教育委員会

攻撃・合戦・地雷・激戦・銃撃・夜襲・・・。
飛び交う言葉で、ここが激戦の地であったことがよく分かります。
「明治維新発祥の戦」といっても、人が人を傷つけ合うのは過去の
歴史といえども胸が痛みます。
今の私たちに出来るのは、戦いの歴史を忘れない事だと、
戦跡記念碑の前で思いました。
地図リンクはこちらを↓(呑水垰)
  Mapion
関連リンクはこちらを↓
  □ 防長墓城掃苔録 > 戦場総覧 > 大田・絵堂の戦い
  □ 幕末京都 > 絵堂・大田の戦
  □ みとう情報ナビ > 2007/03/24 大田・絵堂の戦い③
  □ みとう情報ナビ > 2007/03/13 大田・絵堂の戦い②
  □ みとう情報ナビ > 2007/02/27 大田・絵堂の戦い①
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テーマ:山口県 - ジャンル:地域情報

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