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大田・絵堂の戦い⑤
今日は「大田・絵堂の戦い」の第五弾として、
川上の『大田絵堂戦跡記念碑』を紹介しましょう。
川上の『大田絵堂戦跡記念碑』
「大木津(おおこつ)・川上の戦」は「呑水垰(のみずのたお)の戦」と共に
大田・絵堂の戦いにおいての激戦地でした。
この題字も旧萩藩主の正三位公爵「毛利元昭」によるものだそうです。
読み難いのですが「慶應乙丑 大田絵堂戦跡記念碑」と刻まれています。

記念碑のある所には、戦いの説明板があります。
川上『大田絵堂戦跡記念碑』説明板
ちょっと貼り付けた写真では読めそうもないので、転記します。
 大木津・川上口の戦い
  慶應元年(1865)正月10日、萩政府軍(俗論党)は力士隊を
  先頭に大木津に攻め入る。諸隊側は奇兵隊が守備していたが
  多勢に無勢、殿ヶ浴に地雷を仕掛けて川上口まで退却。
  地雷は不発に終わり、民家7軒を焼失して大激戦となる。
  銃声を聞いた本陣(大田・金麗社)の山県狂介(有朋)は、
  奇兵隊第2銃隊に幣振坂からの急襲を命じ、難局を打破した。
  そこへ、八幡隊・南園隊が救援にかけつけ政府軍は敗退した。
  この戦いは、保守と急進の天下分け目の戦いであった。
  幣振坂は川上橋向こう岸の山の斜面にある。
  この地から南へ100mばかりの所に、萩政府軍撰鋒隊士
  駒井小源太・水津岩之充の墓がある。
  戦死者 諸隊:10名 萩政府軍:6名
                                美東町教育委員会

内訳は、大木津の戦いでは戦死者(諸隊:2名 萩政府軍:1名)、
川上の戦いでは戦死者(諸隊:8名 萩政府軍:5名 民家焼失:7)

また、いろいろなWebサイトで情報を集めると、
  1月10日の午後から政府側は力士隊を先に立てて、撰鋒隊
  (ゲーベル銃所持)が大木津の奇兵隊を攻撃してきた。
  当時は草木が繁る間道程度の狭い道だった。
  政府側の約200名が全力で攻め掛けてきた為、約150名の奇兵隊
  (奇兵隊参謀三好軍太郎、砲隊長三浦梧郎ら)も支えきれず、
  川上へ退却した。その際、仕掛けておいた地雷が爆発せず、
  諸隊側は本陣間近まで迫られ、窮地に陥った。
  金麗社本陣にいた山県狂介(有朋)はこの銃撃戦を聞き、予想外に
  敵が迫っていることを知ると、奇兵隊第二銃隊約40を自ら率い、
  側面の山(幣振坂)から急襲する。
  八幡隊、南園隊も駆けつけ、間もなく形勢逆転。
  午後4時ごろ、ようやく藩政府軍は絵堂へと退却した。

この文章のほうが分かり易いかも知れません。
司馬遼太郎の『世に棲む日日 V(路上の戦闘)』にも、
この件(くだり)が載っているそうです。

山県狂介(有朋)の補足として、
  山県有朋は明治になって陸軍の法王的な存在となったが、
  軍隊指揮に才能があったのかどうか。
  西南戦争での戦闘指揮を見ると、慎重のうえにも慎重を重ね、
  絶対的有利な状況を作ってから攻めるという、一切戦闘に
  博打的要素を持ち込まないという印象がある。
  しかし「大田・絵堂の戦い」での山県の指揮振りは、
  まるで別人を見るかのようである。
  山県にしてみれば、一世一代の大博打だったかも知れない。

と分析しているWebサイトもありました。
川上の『大田絵堂戦跡記念碑』-2
歴史は調べると奥深いものです。
地図リンクはこちらを↓(川上)
  Mapion
関連リンクはこちらを↓
  □ 防長墓城掃苔録 > 戦場総覧 > 大田・絵堂の戦い
  □ 幕末京都 > 絵堂・大田の戦
  □ みとう情報ナビ > 2007/04/06 大田・絵堂の戦い④
  □ みとう情報ナビ > 2007/03/24 大田・絵堂の戦い③
  □ みとう情報ナビ > 2007/03/13 大田・絵堂の戦い②
  □ みとう情報ナビ > 2007/02/27 大田・絵堂の戦い①
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