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三本木滑走路跡
秋吉台北部:国土地理院撮影の空中写真(1996年撮影)
出典明示
「国土地理院撮影の空中写真(1996年撮影)」
  作業名:CG963X  地区:秋吉台北部  コース:C14  番号:8
  撮影機関:国土地理院  撮影日:1996/4/18  形式:白黒
  撮影高度:3,800m  撮影縮尺:1/25,000

1996年4月に撮影された秋吉台北部の部分拡大です。
左下に秋吉台サファリランドが見えます。
中央を南北に貫いているのが、県道28号線です。
今日は、県道沿いにかつてあった『三本木滑走路』を紹介しましょう。
「三本木滑走路跡」地図
中央右上、③と書かれたところに斜めの赤線が記されています。
「末原窯跡」の北北西に位置している、これが「三本木滑走路跡」です。

1945年(昭和20年)6月23日、沖縄は米軍に占領され、本土決戦が
近づくにつれて、内陸部にも飛行場が数多く作られました。
その内のひとつが、ここです。
『三本木滑走路』は、「末原飛行場」とか「赤郷飛行場」と呼ばれて
いたようです。陸軍ではなく、海軍航空隊の飛行場でした。
滑走路設計図
出典明示
「戦後50年 私の戦時体験 -座談会の記録-」より
  滑走路設計図
:(左が北)
これが「滑走路設計図」ですが、右端に「六三三基地略図」とあります。
ちょっとこれでは余りに略図すぎて分かりません。
赤郷村三本木旧飛行場平面図
出典明示
「戦後50年 私の戦時体験 -座談会の記録-」より
  赤郷村三本木旧飛行場平面図[上田順雄氏提供]
:(右が北)
これだとかなり概要が分かる気がします。

「戦後50年 私の戦時体験 -座談会の記録-」より転記させて頂きます。
三本木滑走路建設の概要
  三本木滑走路は、敗戦の気配が濃厚となってきた昭和20年(1945年)
  6月、本土決戦に備えて海軍が美東町赤郷三本木地区に建設を着手
  したもので、その工事は一ヶ月足らずの突貫工事であった。
  赤郷村及び近郷の住民を中心に、交替で労働に奉仕するよう命が
  出され、秋吉・岩永などからの遠来の人達は民宿を行って励行した。
  7月15日、長さ600m、幅30mの滑走路が完成する。
  しかし、飛来した飛行機はデモストレーション用の練習機
  1機のみであったという。
  三本木は、秋吉台東北端の猪出台東麓に位置し、近くに所在する
  天然記念物「景清穴」を天然の爆薬庫として利用する構想もあった
  ようである。
  現在、三本木滑走路跡は県道小郡-三隅線沿いに面影を残し、
  長登銅山跡から搬入された銅の製錬カスである「からみ」も
  散在していて、一帯は雑木薮となっている。


終戦直前に完成したため、戦闘機は一機も離発着しなかった幻の滑走路。
ただ一機、飛んだ練習機は赤茶色の複葉機だったそうです。
赤茶色の複葉機
こんな感じでしょうか。
正しくは「九三式中間練習機」ですが、その塗色から「赤とんぼ」の
愛称で親しまれた、複葉の名作練習機です。
海軍の飛行機乗りは必ずお世話になった機体だそうで、他機に練習機で
あることを知らせる橙黄色になり、「赤とんぼ」の由縁となったと知りました。

滑走路建設工事には延べ6万人が従事したとの記述も残されています。
(約20日間の突貫工事。一日平均、約3,000人ということになります。
昭和15年の美東町人口が4,754人だった事を考えると凄さが分かります。)
また、大人だけでなく、子どもたちも作業に借り出されたそうです。
地元、赤郷国民学校(現、美東町立赤郷小学校)における、
当時の校務日誌[校務・看護・宿直日誌]に記録があります。
関連日誌を簡略化して抜粋してみます。(もともとの文字は漢字と
カタカナですが、読み易いように、カタナカを平仮名に変えています。)
校務・看護・宿直日誌(赤郷国民学校)昭和20年
  6月04日(火)曇 オートジヤロ飛来本校上空低空にて通過す
  6月09日(土)曇 呉海軍施設部主計少尉、工作室借受に来校。
  6月11日(月)曇 午前5時過警戒警報発令。B29低空飛来。
  6月23日(土)雨 海軍、基地工事建設のため約80名来校。校舎宿泊。
  7月04日(水)晴 校長以下全職員(後藤訓導除く)三本木作業出動。
  7月08日(日)晴 初五以上(※1)、三本木作業。
  7月9・10・11・13日 高男女(※2)、三本木作業場へ出動。
  7月13・15・15日 初五(※1)以上、三本木作業場へ出動。
  7月15日(日)晴 午後7時より三本木滑走路の竣工式直会。
  8月08日(水)晴 B29、168機上空飛来通過(午前10時)投弾なし。
  8月15日(水)晴 政府重大ニュース発表。敵国に対して休戦を宣す。
  9月02日(日)雨 ポツダム宣言正式受諾完了

    ※1 初五以上 : 国民学校初等科5年生以上のこと
    ※2 高男女  : 国民学校高等科の男女生徒のこと
年長の男子生徒だけでなく女子生徒も、また初等科の児童も
工事に参加させられていました。辛い時代背景です。
現在の「三本木滑走路跡」附近-1
現在の「三本木滑走路跡」です。
北側から南南東、滑走路があった方角を撮っています。

今日の記事で参考にさせて頂いた冊子があります。
美東町文化研究会が平成7年7月31日に発行した
戦後50年 私の戦時体験 -座談会の記録-」という本です。
やがて人々の記憶から消え失せてしまうであろう苦しかった貴重な
体験を、座談会を行い、冊子にまとめて刊行されたものです。
戦争の傷跡も衝撃も次第に風化し、遠くに過ぎ去って行くことへの不安感。
平和の尊さを、もう一度強く認識しようという思い。
そうした思想から生まれた冊子です。
美東町文化研究会の皆さま、ありがとうございました。

平和な日常が普通だと感じている私たちにとって、
伝えていかなければならない歴史だと思います。
現在の「三本木滑走路跡」附近-2
南側から北北西、滑走路があった方角の現在。
地図リンクはこちらを↓(三本木滑走路跡)
  Mapion
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コメント
この記事へのコメント
三本木飛行場奉仕作業
三本木飛行場と言う名前を久しぶりに聞きました。以前、家のばあちゃんが生きていた頃に聞いたことがありますが、昔、ほとんど毎日大田から三本木まで奉仕活動にいっていたそうです。途中、呑水に峠の茶屋(ところてん屋?)があってそこで一休みするのが楽しみだったと言っていました。今の呑水溜め池辺りのだったそうです。大変な時代だったんだなと改めて思います。
2008/02/10(日) 21:46:39 | URL | uma #-[ 編集]
奉仕と強制の違い
その当時のご苦労は、今の私たちにとって想像し難いものだったようです。
遠方各地から多くの老若男女が列をなして三本木に集まる光景は、
戦争の悲惨さを物語っています。
これは「奉仕活動」の名のもとでの「強制労働」でしょう。
「欲しがりません勝までは」の精神を叩き込まれた人々には、
違和感や強制されているという気持ちは薄かったのかも知れませんが、
繰り返してはならない歴史の証言でしょう。

そういえば呑水峠には茶屋があったのですね。
以前は溜池の辺りに民家がありましたが、関係があったのでしょうか。
憩いの場はいつの時代にも必要です。
2008/02/11(月) 09:54:21 | URL | mitounavi #6g0AATHs[ 編集]
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